その暗さが鬱陶しいのだ。

 小平晋平の身の上は、いつかご紹介した通りで何の不自由もなく戦後日本の文脈のなかでは、充分に豊かな生活を生まれながらにして享受できる家庭環境によって支えられ、それは、現在から振り返ればその頃から既に、小平晋平のように豊かで文化的な暮らしを何の不自由もなく暮らすことができた階層と、そこに及ぶまでにはどれだけの労働を費やす必要があるのかということさえ見切ることが困難であり、つまりはささやかに営まれる日常生活の彩りを、多少削っでも充分に間に合わせられるわけもなく、それは、過去に三浦つとむ氏がどこかで指摘していたように、低学歴労働者が自分の子どもに高等教育を受けさせるためには自分じしんの労働の再生産にかかる資金を削らねばならないという定理に従うほかはなく、もちろん、その高等教育というものが、努力と勤勉は報われるという無根拠なプロパガンダに支えられ続けているこの国の<差別のない平等な国家>というご立派な、この上もなくご立派な理想を実現しているかのような幻想を世界に、そして哀れでナイーブなこの国の青少年に対して植えつけるために周到に準備された、アリバイであるにもかかわらず、多勢はその一点さえ解消できれば、現在「イエ」が置かれている、辛どさ、きつさ、から一族が解放されると本気で考えているのかどうか知れないが、そういう文脈でいえば、本気で考える程度の頭脳の働きが、この国の多勢にあったとしたならば、現在になって自分じしんの首を絞めるだけの政治や行政、そして企業の営みを手放しで承認しているようなことにはなっていない筈なのだから、やはり考える主体として自律しているわけでもなく、ただただ、小平晋平の兄が勤めている企業が代表するこの国の多勢を自在に動かし、心地よい胎内回帰にも似た、心地よい思考停止に導き、疑問も批判も持たない去勢された精神に加工するシステムに流れ流されていくだけであったと言えるのだが、そのような階層とに、実に、団塊の世代と呼ばれる戦後自由主義教育を享受してきたという幻想に浸りきっている人たちが、自分の精神は自由であると思いこんでいる間にも確かに、支配システムが強固になっていく過程がつらつらぺっぺと進行していく局面では、小平晋平のような階層は、ある意味、固定化した階級と呼ばれても仕方がないものとして、現前し続けていたわけであるということなのだが、そういう階層の、小平晋平が置かれている環境に小平晋平じしんは意識することもなく、ただ、成長してきたわけだが・・・。