8.27 ある自殺の記憶

自殺するってのは卑怯なこと。
卑怯という軽い言葉でしか表現できいのがもどかしいくらいに、薄汚く迷惑な行為である。
前にも書いたが、自分の「死」に対する自由なんてないわけ。そんな自由なんてない。日々の生ですら個人の所有じゃないのに、どうして「死」を所有することができる?

ある男が自殺したのは、この日付だ。もちろん、浴びせられた「言葉」の重さだけがきっかけで死ぬ奴はいない。そんな奴は狂っているのだ。そして相手が狂っているという理由で「言葉」に手加減を加える必要もない。「言葉」はきっかけに過ぎなかったんだ。きっかけのひとつに過ぎなかったんだと、オレは、そう思いこんできたし、そういう風に思わないと日常的に巻き込まれ続ける消耗戦を続けることができない。同時に、自分の「言葉」がトリガーとなって人が死ぬってことがあるんだ、ということをオレは体験的に知った。

オレはその死にショックなんて受けていない。自分の責任だとも思わない。つまらない卑怯者が1人、コミュニケーションを拒絶して一方的に関係を断絶して到達不可能な場所に逃げたに過ぎない。
一方で、そんな奴は生きていても仕方ないとは絶対に思わない。いくら彼らが多勢の数を頼りにして、暴力を形成するにしても、奴隷には、奴隷なりの人生があって良いからだ。
もちろん、オレだってそんな奴隷野郎どもと大差ない。
だけどオレは死なない。自称鬱病を言い訳にして、人生を嘗めきって無為に日々を過ごすだけの虚ろな阿呆じゃないから、「死」の模倣もしないし自傷行為もしない。

こういう奴らは他者との関係の中で自分を優位に保つためだけのために「死」を口にするのをみんな知っている。こいつらなんて絶対に自殺を遂げることはしないから、大丈夫だ。

夏の終わりになると、ある死を思い出すだけに過ぎない。自分じしんの、さして暴力的でもない言葉が、充分に人を殺す能力のある暴力装置であることに気づかされた体験を思い起こすに過ぎない。

そしてもちろんオレは、「死ねばいいのに」とか「殺したい奴がいる」なんていう最低の人間の吐く言葉を口にしない。思ったよりカンタンに人は自殺するってことを知っているからだ。