8.27のエントリー「ある自殺の記憶」について

id:massunnkさんに、私のエントリーを取り上げて頂いた。

ニートホープ - 生きてるだけで死ぬほどつらい人間がいること6

ご返事が遅くなってしまいましたが、拝読しいろいろと考えてました。まとまっていないけど、追記していくつもりで書きました。


最初に、あの文章を唐突に突きつけられたら、id:massunnkのおっしゃるように自分に引き寄せて、傷ついたり、いやな思いをする人はいることも、分っています。
ただ、僕には自殺という行為を、肯定したり、美化したり、賞賛することだけは絶対にしない、したくない、という固い意志があります。その気持ちを分りたいとも思わないんですよ。「死ぬなよ」ってことなんです。それだけですよね。



幾度も繰り返し再生される風景があります。
千代田線のホームに電車が流れ込んでくるときに、すうっと引き込まれるように、躰が誰かの躰のように浮かんで、線路に落ちていく感覚を伴う風景です。それのタイミングがちょっと前後にずれていれば、僕だって死んでいたかもしれません。


そういう危うい感覚ってのは、結構多くの人が体験しているものだったりします。

僕は40代のオッサンですが、僕たちくらいの年齢のビジネスマンならば、ほとんどの人が体験していることだったりします。きっかけはいくらでもあるし人によって違うでしょうが・・・。

それこそ一週間に三時間程度しか家に帰れなかったり、それでもプロジェクトを進行するためには倍くらいやんなきゃならないことがあったり、自分が逃げればそのプロジェクト自体が潰れる、つまり、スペアのいない状況に置かれていたり、ある仕事から外されたり・・・と。

本当に「死ねば楽になる」っていうようなことを躰が考えちゃうんですよね。そしてそういう体験ってのは、とても陳腐で良くあることなんですよね。仕事のパートナーや同業者や取引先企業の社員たちと酒を飲むと、そんな話が意外な人から出てきたり、っていうのは何度も経験していることです。

心の状況ってのは、大きく起伏しているし、誰もが鬱な部分を抱えていたり強い部分と弱い部分を持っていたり・・・。そう考えると、その起伏の中で、自身を喪失したり、気が沈んだりするときだけを捉えてしう「死」への誘惑と、みんな戦っていたりするわけじゃないですか、と僕は思うんですよね。


あと・・・。あえて、言いますが、
id:massunnkさんの「生きているだけで死ぬほどつらい人間」ってのは、「みんなそうなんだ」と僕は思っています。みんな、そういうことを思ってしまう時期や瞬間を通っている、ということです。


「日々の生ですら個人の所有じゃない」ということについて

少なくとも、僕は死ねばラクラクちんちんころちんちん、だと思っています。
一方で、生きているのは自分ではなく社会的存在である自分という個体だ、という考えが僕にはあります。

僕という人間に今までなされている経済的投資、精神的な投資、教育、自分が消費しながら身につけてきたいろんなモノ、そんなのが自分を構成しているのであって、そこには、いろいろな人や社会からの投資があって、そのすべてを返済しきって自分の躰を奪還することなんていうのは到底不可能なことであって*1、だから、僕は<僕の自由>なんかで生を生きていない、ということです。

また、こうも言えます。
粗末な選択肢しか準備されていないショーウインドの中からしか選択できないモノを消費して、予め準備された粗末で再生産に再生産を重ねてきた大量生産の物語を消費していく・・・。
いったいどれだけの作者が自由に表現しているのでしょうか? 僕たちは何が自由なのでしょうか? 
大量消費のドブに首まで浸かってしまっている以上、その人の人生ってのは、「勝手に決めている」ようでありながら、何一つ勝手に決められないものだったりするんじゃないかな。

だから、「人間に出来る意識的行為には、自殺すること、子供を作らないことの二つがある」みたいなことを、あの埴谷雄高でさえ言っちゃうのですが・・・。子どもを作らないことはさておき、自殺することを自由にやられては、関係の輪を形成している人たちにとっては溜まったモンじゃないんだと思うんですよ。


自殺した人たちは、特権的なものではないってことを、僕は思っています。自殺なんてのは、その程度のものなんです。だからこそ、薬遊びや自傷行為をのしている人たちだけの特権的な事柄として位置づけられるのが耐えられない。


僕たち全員の問題なんだと僕は思うのです。「生きているだけで死ぬほどつらい」体験をしたことのないサラリーマンやビジネスマンは少数ですよ。実際は、普通の働くオッサン全般が死ぬ数のほうが多いんじゃないかなと・・・あくまでいい加減な印象ですが、僕は思うんですよ。
そして彼らオッサンは、家族や会社や進行中のプロジェクトや投資されている資本やそういうものをすべてドガチャカにしちゃって、周囲に対するオトシマエを反故にして、すごく、自分勝手に「死」を選択しちゃうんですよ。ダイブしちゃう。珍しいことでもないし特権的なことでもない。

単にね、すべての責任を放棄する行為が自殺だと、僕はそういう局面にしか想像力がいかないからなのかもしれませんが、思うんです。他者との関係性の中で生き続けている存在が、その関係性を一方的に断絶してしまうのは、僕は、それは卑怯だと言っちゃうんですよね。


ある意味、死者に対するストーカー行為なのかもしれませんが・・・。
僕は、僕の言葉が殺すことになった彼とは、次の段階の議論を育てて行きたかったし、しっかりと話を継続させたかったんですよ。問題は何一つ解決していなかったのですから。だから、勝手に関係を終了させることに、無性に腹が立つワケです。言葉で死ぬだけのことをしてきたのか? と。



メンタルヘルス系を卑下しているか・・・

メンタルヘルス系は特権ではない」ということが僕の言いたいことのコアなんですよ。

メンタルヘルス*2の人たちに対して卑下するという感じについては、どうして、そういう表象で自分の存在を代弁しちゃうかな、というもどかしさ、と、実際に「死」を試みる行為をして、その結果を、わざわざ人前で話したり、人と共有したりするのが、死んだ男の死に様を考えたときに、バカにしているように見えるってことです。

どうして、今の300倍の本を読み、100万倍の言葉を聞き、書き、30倍の人と話をしようと選択をして自分を客観的に眺める訓練をすることを放棄して、主観的な生を肯定するだけの機能しか持たない病院に溺れることを選択してしまうのか・・・と。
詩人になれない奴には詩人になれないと、誰かが宣告しなきゃならないワケなんです。

また、治療のために通っていくならまだいいでしょう。中には、自分がメンタルヘルス系であるという所属意識を維持したいがためだけに通院する人たちも、実際に、いるのです。
重度の障害に方に対して攻撃しているんではなく、mixiの友人だけに公開の日記で、自分のリストカットの写真や他者に対する暴力の写真をアップして喜んでいるような人たちに対して、医療を無駄に消費している姿しか見えないんですよね。


誰が、彼らに、そんな特権を与えたのか・・・。

僕には、中央線に衝動的に飛び込んでしまうサラリーマンも、メンヘルだと自称するのを憚らない人たち

も人の価値としては一緒です。もちろん僕自身もです。あと、自殺者を数値で語る方が多いんですが、僕にとっては三万人の自殺者というのが多い少ないというところには問題の本質はないと思っています。数字にされることで、個々の個別具体的な物語は捨て去られてしまって、単なる規模の話にすげ替えられ、ワイドショーで消費される類の空虚な記号だけが残ってしまでしょ。
自殺者三万人、クリントンの爆撃が原因で死んだスーダンの子供たち100万人。こういう表現は、個別の生を生きた人々に対してなされるべきではないし、数値に対して語らされ誘導されることが嫌いなんです。

*1:人は、親の投資を返済仕切れるのか?

*2:実は、僕はこの言葉が大嫌いです。こういう乱暴なくくり方をしたときに、自ら進んでその名乗りを挙げる人と、意地でもそうグルーピングされることを拒否する人とが必ず存在する、その事実がある限り、「私はメンタルヘルス系である」という宣言は党派性を帯びた連帯としてしか機能しない