誰を相手に、刃物を振りかざしたのか。

 百歩譲って「狂ったふり」をするのは自由だ。人は「意識」しないで行う。断っておくが神はいないし、ひとりひとりの精神を制御できる特権的な階級もシステムも存在しない。あるのは、安価な模倣によるブサイクでポンコツな資本主義のシステムだけであって、少なくとも僕はこのシステムとの折り合いを考えるしか生きる術を知らない。そういう意味では、消費の1つの形として「狂気」を演じる権利は、誰にでもあるし、演じている者と一緒になって「狂気」の日常に興じるのは、それはそれは贅沢な趣向として認めることは認める。

 だが、一貫して批判されねばならないのは、その「狂気」を野放しにしているパートナーの態度だ。制御することができないならば何のパートナーなのだ。場末の大根役者が拙くも演じて見せる模倣の手加減まみれの狂気づらを、臆面もなく他人様の前に連れ回して、「僕だけは、君の味方だよ」とでも言いたげな態度よろしく、チープなメロドラマのワンシーンをなぞって気持ちヨガッテイル、そんな幼稚な精神の有りようってのは、どうなんだってことなのだ。

 もちろん、それが現実の場で行われていくから驚きな訳であって、『死の棘』の主人公が全生命を賭してミホを守る物語に比べて、さんざんな小賢しい三文芝居を演じ、かつ、ピンポイントで最終兵器を放つことに、紛れもなく荷担しているのは君なんだから。

 現実じゃなきゃいいのか? そうじゃないだろ。僕らは既に、そんなチープな現実からの跳躍を済ませているじゃないか。1994年に。

 だったら、1994年に私たちの前に現れたインターネットの世界から出て行けば良いのだ。都内の小さなアパートの一室で、狂気ごっこをしていればいいのだ。永遠に。

 1996年にスイスのダヴォスでジョン・ベリー・バーロウが語ったサイバースペース独立宣言にあるように、そんな陳腐化された情報産業が作り上げたソープオペラを書き連ねる場所ではないんだよ、ここは。

 さて、ゲームもそろそろ終盤に近づいてきたのか、それともまだまだ続くのか・・・。それは精神を侵略された側である僕には決定できない。いつの世も、一方的にその闘いの終結を宣言するのは、最初に攻撃を始めた側なのであるから。

サイバースペース独立宣言
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