「誠一郎の手記から」

そう、僕たちは好むと好まざるとにかかわらず、多忙で思考の中断を余儀なくされるポンコツな日常を送らねばならない状況におかれてしまっているわけで、たった一つの精神が全身全霊をかけて放ってくる自称最終兵器に対して、いちいちかまっている場合じゃないってこともあるってことくらいは互いに大人なんだから了解済みであるべきだし、理由なく(理由というのは、他者に説明することができるだけの客観性を持ってはじめて理由になるのだが、バカにはそれさえもわからない)展開される侮蔑の言葉の数々が、たったひとときでも、効率的に営まれねばならない日常の、仕事、人付き合い、余暇、趣味、という、誰かにとってはどうでもいいに違いないだろうってことは営んでいる本人がとっくに了解済みなわけだが、営んでいるからには必然的で具体的なモノとして継続されている、そんな日常という馬鹿馬鹿しく愚かでつまんない営みを、ひとときでも中断させたり非効率的にさせたりするくらいなら、最終兵器を放って自己満足に浸っている極めて自閉した精神との交流なんてものは、それこそ危うく繋がっている繋がりを支え続けることに貴重な時間とエネルギーを使うよりはむしろ、使うよりは、むしろその、違和を軽やかに跳躍しながら愉しむのが知性的な首尾であり、こちら側で生き続けなければならないことを選択した者の宿命である筈なのに・・・夢見る頃をとっくに過ぎても、永遠の青春、永遠の少女を生きたいのならば、それはそれで、ある意味、この上なく貴重でナイーブ(恥知らずという程度の意味だ)な才能なんだろうが、ナニにせよ、いつもいつも「自分語り」しかできない、自分の経験と自分の辿ってきた陳腐で凡庸なシーンの不細工でボロボロなモザイクと、物語と呼ぶには余りにも余りにツマラぬそんな過剰で全くもって保守的な自己劇化だけで成立している、いつか見たうざったい似非インテリどもの抱き続けているインチキな反吐と糞にまみれた幻想の安価な模倣でしかない、そんなモノとコトを吐き出すのがせいぜいである程度の底の浅い精神、精神と呼ぶのも憚られる、過剰・蕩尽型経済の中で大量生産大量消費されていくチープで幼稚なメロドラマにしか見えない、そんな凡庸極まりない精神が、一方の手には、常々過剰に周到に手入れをされた万全な精密機械であるブレーキを操作しながら放つ、卑怯で愚劣な最終兵器に対して、ナニを考え、ナニを語れというのかわからないが・・・もとより、人は「意識」してそれを行う訳ではなく、僕たちはそんな多忙で意識と思考の中断を余儀なくされている「現実」を好むと好まざるとにかかわらず生きなければならないのだから、そう、書にまみれ止めどない思考ゲームに浸ることのできた学生時代ならばともかく、日経新聞であったり、 ITmediaであったりc'NETであったり、KNN氏の立候補の意味であったり、商用であったりそんな下らないモノがメインの生活を、その生活を「現実」であるとする側の世界に、しっかりとした根を張り、その中で日常を闘い、共闘する者とは共闘し、無為にも見える抵抗を繰り返しながら、無駄を削ぎ落とし、その尺度で慎重に調整された精密機械の天秤を持ち、記憶という凡庸な物語に変えられてしまった一回性の体験を、陳腐化され一般化される物語として語ることを厭い、語る者を貶み、語る者を煽てるものたちを軽蔑し、語ることにしがみついているだけでその実際はその凡庸な人生の1コマを非凡な物語として積み重ねようという営みを放棄している幼稚な精神を嘲笑い、それでも語らざるを得ないという彼岸から声にならない声を紡ぎなんとか語るための唯一の処方を探し続けているのだが、もとより、意識と思考の中断を余儀なくされている「現実」を好むと好まざるとにかかわらず生きなければならない僕たちは、ちょっと引いたところで眺めることしかできないのだよ。

「そう、キチガイを殺すのはカンタン、妄想のタネをまき続ければいいだけだ。」(小平晋平の手記より)

 僕は、その見世物を見物するかもしれないし、それほど暇でもないかもしれない。それが、世界だし、言葉だ。(「小説 矢車真実子の生涯」より)