7/18 親子会追記

■打ち合わせ長引いたので、開口一番の志らく師の途中で入場する。ロビーにいるときは、前座だと思っていたのだが会場に入ると志らく師であった。

■演目
志らく 「片棒」
  ※途中で退席

談志 「木乃伊取り」

 仲入り後は、志らく師だけなので退席。

志らく師の落語が聞ける(つまり耐えることができる)コンディションじゃなかったので、「片棒」は、ちょっとだけ聞いて退出。無意味に暴力的なテンションの高さで「狂気」を模倣するやりようというのは、聴く側に盲目的で全肯定的なファン感情によるなんでもOKの寛容さか、ただひたすら時間が過ぎ去るのを待つじっと我慢の忍耐がなけりゃ聴けたもんじゃない。良い芸というのは、聴く側に「意図的な悪意」があっても相当感動させるものなのに・・・。そういう作品に、たとえば演劇や小説の世界では出会うことがあるが・・・。志らく師がつまんないのは、彼に基本的な思想と文学の資質がないからであろう。映画と懐メロではどうようもないのよ・・・。そこが、家元との致命的な違いだと思う。
■芸に思想が必要かというと、それは「たかが落語」と開き直る態度をとるのでなく、彼のように「自分は前衛だ・天才だ・マルチだ」という自負を内外に表明しているのならば、絶対に必要なのだと答えるしかない。古今東西の例を挙げるまでもなくそのときどきの思想の前衛との格闘のない芸術の前衛はあり得ないからだ。大衆芸能をやりたいんだったら、「全身落語家」なんていう下らない見栄を張るべきじゃないんだ。あと観たくないのがキチガイの真似事。彼こそ「左手には、周到に手入れされた計算尽くの精密機械としての良く効くブレーキを持ちながら、右手で狂気を模倣する精神」の典型である。狂気ってえのは、例えが訳わからんかも知れないが、大久保鷹さんの演技のようなものを言うんだ。凡庸で中途半端な精神が天才の模倣をする醜さに耐えられず退席した次第だ。
■というわけで、家元の「木乃伊取り」。これだって有り体にいえば、決して良い出来ではない筈。途中で噺が飛ぶ、間違える、忘れる・・・。最近の家元のライブにはよくあることだが、そういうことがあっても、家元の精神が、ふっとその瞬間に、<家元自身の身体によって進行している「落語」>を停止し、異化し、方法的に分析し、解釈する言葉でつなぐとき、落語は単なる大衆芸能ではなく「方法論」としてそこに成立するのだ。ブランショの言う「文学的孤独」、つまり絶対的な孤独の地平が、自分の身体性との違和、もっと言えば他者化により、自分自身から裏切られるところで全き外部である筈の彼岸に達する。「落語の彼岸」だ。物語やストーリー、そして知識をひけらかすためだけの虚飾や饒舌は全く重要ではなく、彼が彼として彼を語る行為そのものを語る現象が現前されるのと出会うとき、聴衆は不特定多数の「衆」から、個となって突き放され実に幸福な一回性の個別具体的な体験をするのだ。断言できるが、メタレベルで語られた芸術以外は、前衛としての価値はない。詩でも小説でもなんでもそうだ。なぜならば、「方法論」こそが芸術だからだ。方法的な落語家以外に落語家は必要ないし、方法的な聴衆以外は単なる消費者であり市場の奴隷である。堀井さんには永遠に解らぬことだ。だから徹底的に非妥協的な破壊が必要になる。志らく師のやっていることは破壊というものの模倣に過ぎず、破壊ごっこであり、何ら時代を新しい局面に進めていない。大量生産大量消費のシステムの中での限りない再生産のスパイラルから抜けられていない以上、それは芸ではなく蕩尽される商品に過ぎないのに、どうして無根拠な自信で自分を芸の高みにいると言えるのかが解らない。そのインチキさが気にくわないのだ。