ギャップキャップ

  • 外部との隔絶を思い知らされる瞬間だけが信用に値する。丸めこむことは容易。相手が理解しようがしまいがお構いなしに解説するだけのことだ。情報に置き換えようとすればするほど、お客様の純粋体験を阻害するのは解る。でも、純粋体験は解釈のアナーキズムを生む。文脈を見失ったとき物事の価値はお客様の自分勝手な思い込みの海のなかで増長し、あるいは不当に軽んじられ、あるいは過大に持ちあげられた揚句に梯子を外されることもしばしばなのだ。どっちに転んでも、お調子者は痛く傷つく。『珈琲に憑かれた男たち』での中で触れられていた、標氏がカップサービスを一切やめ焙煎に専念した背景・・・。珈琲焙煎人は内省を繰り返さなければダメになってしまうのである。あるとき、ある焙煎人に「そんなに神経質になっていると、珈琲が神経質になっちゃうよ」と言われたことがある。この手の「町のソクラテス」気取りの薄っぺらい説教は、絶対悪だと思っているのだが、まあ、それで気分が楽になるというのもあったが、よくよく考えると、そんなのは、徹底的に批判されるべき怠惰な態度だと思う。
  • 珈琲ってものは、「神経質」になることはない。もしなったと感じるならば、感じた人間が言語化を放棄しているのである。解釈はアナーキーに走りがちなのと同時に、簡単に放棄されるものなのだ。放棄できる程度の仕事ならば、やらなきゃいいのである。
  • そんな、あたり前のことを考えるようになったのはIDIDOナチュラルのショックが大きかったせいなのかもしれないけど。