小池桂子と智以佐一

e-boo2009-06-12


■あんた、ダリだ

 あんたは、マンションの隣の部屋の女が朝っぱらから上機嫌で同じ曲の同じところばっかりくり返しつづけるその鼻唄が耳ざわりで、起床し、アツいシャワーを浴び、クリーニングから上がってきたばかりのシャツを着て仕事にいかなきゃならない時間だというのに、どうしても、その糞ったれなベッドから起きあがることができない。べつに今朝までアメリカ人のションベンみたいな糞密造ウイスキーを飲んでいたせいじゃない。誰かが、あんたの日常がくり返されるのを妨害しようとしているのだ。

 あんたは、以前にもこんな感じに襲われただろ?
 古いマンションの、プラスティックを金色に彩色した贋真鍮の手すりが歪んだらせん階段。塗りが醜くはがれ、それがどこまでも黒く深い虫食い穴のようにがのぞいているのが目に入ってきて糞沈んだ気分になってしまう、こんな街。いやいや、街でさえない。ガキの頃、天井からぶら下がってたB−29のプラスティックモデルがそうだったように、表面の下品な質感の塗りをはがしたら石油加工製品の匂いで包まれている贋物だらけの風景。そんな猫さえもいない糞ったれな世界の風景が根本的に徹底的に大嫌いで、それはプラスティックの責任でもシンナー系の下品な安塗料の責任でもなく、その二つの物質をくっつけて大喜びしている戦前の人間の浅薄さの責任である筈なのに、それに腹が立つだけの話なのに、一歩外に出れば、傷口から湧いてくる数百の蛆をつまんで口のなかに放りこみながら、もはや自分の足で立って歩くこともないボロを羽織ったこの通りの老人たちが、あんたを見つめるその目が嫌で、何度も、何度も、その橋の近くを歩いて出かけるのを拒否したい気分に襲われたはずだ。
 蛆まみれ、糞まみれの長老たちは、まあるい輪になって懐かしい時代の話に興じているのだ。
 駄話、糞話だ。入口をふさいでいるグラスファイバー製の前世紀のイスを蹴飛すと、乾いた音をたてて粉々に砕け街の埃となって糞汚れた大気のなかに消えていく。長老たちの語るしぐさ、何かを取ろうとして立ちあがる姿の、そのすべてがスローモーションで、あんただけが、その切りとられた場面の内部にいるのではなくて、むしろ観客席から眺めているような気になってきて、それが寂しく感じて、涙が流れそうになる。
 
 すべての糞ったれな結果に導かれる糞ったれな責任は、くっつけた糞ったれな奴らにある。

▼=fl;++

 「起て! 万国の糞ったれ」
 あんたは、つぶやいて自分で嗤う。その程度の人間だ。その程度の。

■+=+T

 「責任は絶対に放棄できない」。少なくともマットウは、そう信じていた。信じてたからこそ戦争が終わってから珍しく首都の曇った空を小雪のチラつく二月に、荒川の河川敷でゆっくりと眠りについたんだ。最後に弾いていたのはJ.S.バッハの「チェロソナタ」。実際、バッハ以降の進化は無駄ばかりで、残っている作品は偶然の産物だとマットウは言ってた。糞ったれな鉄橋が二本並行してかかっているその下で、チェロと接触しているカラダの細くへなちょこな骨をキンキンと響かせながら、痩せ細った身体を震わせてホ短調の旋律を弾き続けていたマットウが、楽器から身を離してゆっくりと眠りについたそのころ、まだ十代の少年だったあんたには、何の感傷もなかった。おセンチメンタロウな瞬間を過ごすよりは、このさき、ひとりで生きていけるだけの稼ぎを作りだす方法を真剣に考えるということが、あんたを突き動かしていた。生きなきゃならない。誰も助けてくれない以上、自分の力で生きなきゃならない。あんたは、マットウのことを忘れよう、降りはらおうと強く念じていた。ムダに過激なガキ連中をなだめるのは糞ったれに困難だった。困難なら、なかったことにするしかないという結果にしかならない思考にも腹がたっていて、むしろ、小池桂子教団が橋の街から出ていったように、ここを捨ててか、ここに捨てられてかしらないが、移動し、もう少し、少しはましな世界に歩きだすほうがまともなのかもしれないとも思った。

 だが、あんたは、ここを出ることをしなかった。
 ここは、あんたにも、前世紀の奴らにとってもひとつの聖地だったわけだし、マットウは、糞ったれな橋の下でチンコをガチガチに勃起させよだれを流しながら最後の長い眠りについたのだ。二十世紀後半のある日に、この国を震撼させる巨大な爆弾がしかけられるはずだったという伝説の橋の下で。

◎--=XO