大雨という

 唐組の「黒手帳に頬紅を」の楽日観劇。久しぶりの唐組。というかここんとこ数年歌舞伎、文楽以外の芝居を観ることはほとんどなかったので。波として。
芝居は、南千住いろは商店街の甘味どころ「デカダン」に居候する似顔絵画家の泡之二郎を軸として展開。京成上野駅横の坂道で似顔絵を描いていた二郎がある意味停滞しながら暮らし、ともに三人組みで似顔絵を描いてきた田口、横道と負け負けの人生の傷をなめ合いながら生きている。横道はアニメの背景の仕事をしているというが、それに満足しているわけではない。大資本に搾取されつづける芸術家なのだ。唐的二項対立の一方が彼ら+明らかに寂れているしるこ屋「デカダン」の店長、負けた過去を抱きながら母性を体現できればと願う女性店員 庵。対立のもう一方だって、別に国でも制度でもなく、むしろ制度に振り回される悲しいプチ資本家に過ぎなくて、彼らは、自分たちより弱者であるしるこ屋を虐める役割しか与えられていない。そこが唐さんの芝居の悲しみ。階級があるのではなく、分断される階級意識が、本当の階級闘争を隠し、敵を見誤らせる。明かに、本当の敵は黒手帳を発行した、そしてそれを無効にした搾取装置である筈なのに、芝居のなかに繰り広げられるのは、ちんけな街のベニヤ板屋による二郎や庵に対する虐めなのである。

 「電子城」では、敵になりたくないが敵になってしまう敵が描かれる。タグンテ達に敵として敵対しなければならない理由を持たない。鳥山さんは、あの頃はまだ怪優になれる実力を持っていたと思うのだが、彼が扮する敵は、タグンテに対して、「敵対したくないんです」と叫んでいた。分断されることは、痛みをともなっていたのだ。
 「黒手帳」では、あたかもシステムを支える側に回ることを自由意思で選択したかのように思っている暮谷が、最終的には、何ひとつ得ることなく分断のための分断に利用されるさまが描かれ、二郎たちのハッピーエンドもどきは、まるで宮崎アニメのラストシーンのように無邪気なおとぎ話の絵の中に封じ込められ、そこからどこにも行かない。
 提示されるのはカッコ付の「ハッピーエンド」=もうひとつの分断であり、闘いをやめて糞みたいな嘘の幸福を手に歓喜するハクチ化した姿である。コクヨの手帳との継ぎはぎで、炭鉱労働者 波原の最後の夢、死を賭した搾取労働の対価を奪還できたとでも、本気で思っているのか? その偽物の勝利、幸福が、悲しい。そんなものを掴むくらいなら、絶望の淵で庵と二郎は「デカダン」を後にし、新しい世界との闘いをはじめるべきだったのであるが・・・。

 この「吐き気がするほどロマンチック」で糞ったれに能天気な偽物のハッピーエンドこそが、今回の芝居のメッセージなのかなとも思う。派遣、非正規の労働者を卑下し、差別し、虐める陰険な正社員たち。彼らの本当の敵、本当の闘いが何であるのかを忘れるために、薄氷のごときちゃちな既得権益にしがみつくことでいっぱしの場所を確保した気になっていて、そのヴァリアントは、たとえば、60過ぎのサラリーマンの高給を糾弾したり、公務員労働者の処遇を批判したり、メンヘラを差別したり、在日外国人を差別したりという無数の分断された虐め、差別により、誰にとっても無益で、何とひとつ変えない空回りの闘いをさせられている。その担保としてベニヤ屋の暮谷が弟と必死に守ろうとしているのと同じ程度の安っぽい、くだらない自分たちの大切な場所が保たれているような幻想を抱えているわけで、それは、「生きるために歌う」こととはかけ離れたフェイクの闘いを演じさせられているだけにすぎない。そんなことに、「生」を浪費し、無数の分断され対立させられている「自分」が、「自分」の利益だけを考える挙句にみずからいとも簡単に公正性を捨てていくことの恐ろしさ、そういう時代の、くだらない闘いと偽物のハッピーエンドを語ることで、実は、本当の唯一の闘いであり、唯一の物語である筈の、<炭鉱労働者を搾取し捨て去った国家との闘い>という階級闘争を見事なまでに消し去っているのである。

 ハッピーなイメージの中で、車椅子の老婆は跳ね跳び喜ぶ。車椅子の老婆が跳ね上がって歓喜するような芝居ではないので、この立ち上がり、跳ね上がっている姿こそが、その瞬間の風景が夢にすぎないことを語っていると解釈できる。こんなもんは二郎の夢の中のハッピーエンドでしかないのだ。もともと闘い自体が二郎の夢のなかの物語であったように・・・。未来世紀ブラジルのラストシーンのように、夢の中で解放されるのは勝手であるが、そのハッピーエンドのイメージはちゃちで、「それは違う」という冷静な視点を持つ観客からは、物悲しく、暗く、自閉した自己完結の姿にしか見えない。
 芝居が現実を侵食するだけの力があるならば、それが、現実と照らしたときに、今のハッピーを疑うきっかけになれば、唐さんの意図は成功しているだろうし、ハッピーエンドで涙が出て良かったです、ということになってしまえば、無為な闘いをしようとする自称弱者に与えてはならない夢を与え続けるにすぎない。何もかもを説明してくれるテレビ的な受容しかしない読者に対しては、そのエンディングは罪悪以外の何物でもない。これが僕の批判。イメージの時代だからこそ、間違ったイメージを与えるようなミスはダメ。この晩は、テントの観客も酷かったんだから。

 一幕の途中から大雨。血の色の天幕を大粒の雨が叩き紅テントはデッカイ太鼓のようにガラガラと鳴り続けた。そのなかかで、当時は若手といわれた役者たちが叫び歌う姿は良かった。もっとも、テントを始終叩きつける雨が、一番声の大きな出演者であり、あの雨が、救いのない芝居を割増で面白くしていたのだろうとも思う。

池島炭鉱閉山 参考
http://www.nagasaki-np.co.jp/box/ikesima/index.html
http://www.nagasaki-np.co.jp/box/ikesima/kikaku1/02.html