北村史郎の状況

 小平晋平の大学時代の同級生で、やはり例の狂人模倣女の他人が観ている場でしか自傷行為をしない破綻者、無職者、誰もが自分を口説くという人間として軽んじられているという事実を何をどう間違ってしまったのか無根拠でケチなプライドを満足させるための言い訳と同然に会う人ごとに語ろうとする危険な、あまりに危険な存在による自称最終兵器による攻撃の一番の被害者でもある北村史郎が、その箸にも棒にもかからない存在に過ぎないキチガイ女の怨念に満ちた幼稚な振る舞いのすべてを肯定し、決して否定しないことこそが彼女に対する愛であるという、馬鹿馬鹿しい誤解を誤解であると気づいていながら、説得力はないが勢いだけはある虚言の話法により自分じしんを暗示にかけることでその関係を、地元では著名な開業医の息子として生まれ妻も子どももある某テレビ局のそれもキー局のひとつに在籍する報道局員で、意味もなく西洋人の名前のそれも極めて凡庸な愛称名を自らの呼び名として設定して当のキチガイ女にもその名前で自分じしんを呼ばせているその男性ディレクターの、その無責任でセンスのかけらも深みもない当のキチガイ女の狂気の模倣に対する無限の肯定が、彼じしんとそのキチガイ女の二者の間で閉じている幻想のなかで自閉しているならばともかく、外部をかかえたこともないムラ的なあまりにもムラ的な精神構造のなかに浸っていながら、あろうことか他者に向けられることがままあるどころか、常に他者に向かっているという状況について、北村史郎は常々批判的であったのだが、あまりにその地元では著名な開業医の息子に生まれて今は港区に位置するキー局の報道ディレクターである男性が、狂人模倣女を野放しにし彼女がチンケな発狂願望を満たすために外部に対して放ち続けている確信犯的な暴力の数々を無制限に肯定し続けるすることに対して、立てる必要もないのだが始終腹を立てながら、というよりは、そのトラブルメーカーの卑怯で卑劣なやり口によって、決して引き返すことのできない非日常の地平にまで追い込まれながら、あると気づくと、北村史郎本人がつつましやかに維持し続けてきた家庭までもが、その地元では著名な開業医の息子として生まれ自称外国人名で自分じしんを呼ばせる港区にある某キー局のディレクターと、その単なる一時のお遊びの相手、世間的には淫乱で軽薄な不倫相手である狂人模倣女のために破壊されることになるという点では、いまだこの世界には描かれていない小平晋平を待ち受けていた宿命と同様の物語を紡ぐことになってしまうのだが・・・。

 北村の物語は、あたり前だが悲劇ではない。

 悲劇なんてものは解釈にしか存在しないものであり、何者にとっても日常の何一つ不自由がないとされている生活自体は悲劇たり得ないのだから。それはテキストを構成する糸の一本をどう紡ぎ出すかという行為の謂いに過ぎないわけだ。

 北村は気づくのが遅かった。というより、北村は彼の妻の精神の強度を測り違えた。

 模倣された凡庸な狂人は伝染するのだ。

 その模倣でしかない狂人幻想に浸りきっている外国人名を名乗る某キー局のディレクターとの関係を、自らのワザと発見されるように発見される場所で発見される時間を狙いながら行われている自傷行為とあまりにヒステリックな叫びの、端から眺める限りではセンスのないレクリエーションにしか見えない営みを繰り返し繰り返し行うことしか能のない、そんな寂しく侘びしい精神が、彼のキチガイ女じしんが自分の下水道のような糞まみれの日記に、それら馬鹿馬鹿しい話を自慢げに書き連ねることが何かの「文学性」であったり「文化」であるという哀れな思い込みが、思い込みに過ぎないものを止せばいいのに内部にとどめることもできずに、ダラシナク溢れさせてしまうとき、その醜さは、人並外れた醜さの度合いの故に、人を憂鬱にし怒りという快楽に近づけてしまう。

 怨念ではなく戦略で戦うべきなのだ。

 伝染した狂人の模倣は一時的に安らぎを与えるのだろう。
 現実に北村の妻の場合に最初に訪れたのは、専業主婦として、小平晋平と同じ商社に勤める北村の家庭を守り続けるという自我を崩壊させていくときの快感であったに違いない。自傷行為というものがどれだけ卑劣で卑怯で見苦しく醜いものであるかを聞かされていた北村の妻であったが、狂人模倣女と現実に触れ合うことによって、その生活を律していた芯を見失う方向に引き寄せられていくのだ。
 そう、狂人の模倣は伝染する。
 
 北村が、自分の妻が自殺したのだと気づいたのは、海外出張から戻り自宅マンションの玄関を開いたときであった。